2015年1月12日月曜日

何故エレンはスプーンを握って巨人化したのか?~奇妙なウルトラマンの物語

我々昭和40年代の子供たちは、ウルトラマンを熱狂的に受け入れた。イデ隊員がいみしくも名付けたように、子供たちは「ウルトラにいいでしょ」と思ったのだ。しかし、考えてみると、これはえらく軽率な話だ。いきなり現れた「巨人」が、たとえ当面の敵を倒してくれたからといっても、無条件に味方だと信じることは、むしろ非常識である。信用はできないが、しかし、強大な敵を倒してくるた以上、利用はしたい。「進撃の巨人」では、その葛藤が執拗なまでに描かれる。
大人の「ウルトラマン」に対する違和感は大江健三郎のエッセイ「破壊者ウルトラマン」に書かれている。彼が考察したのは第二期ウルトラシリーズのウルトラマンエースである。また、私と同い年の松本人志が監督した「大日本人」もまたウルトラマンへの違和感を描いたものといえる。映画後半は「ウルトラ6兄弟対怪獣軍団」のパロディになっている。また、学生時代に「顔だし」で帰ってきたウルトラマンを演じた庵野秀明がエヴァンゲリオンで追及してきたのも、ウルトラマンに対するある種の違和感だ。「光の巨人」降臨によるファーストインパクトから始まったストーリーには、帰ってきたウルトラマンに熱狂的に惹かれつつも違和感を感じている庵野のアンビバレントな感覚が如実に感じられる。私は「結」は、「人類全体がウルトラマンになる話」だと推測している。

これらの作品が帰ってきたウルトラマンに始まる第二期ウルトラシリーズに対する拘りから生まれたことは、帰ってきたウルトラマンそのものが、ウルトラマンへの、違和感や批判を含んだ反省から生まれていることと無縁ではあるまい。

ウルトラマン、ウルトラセブンと帰ってきたウルトラマンの大きな違いは、前者が「変身アイテム」により変身するのに対して、帰ってきたウルトラマンは、ピンチにならないと変身できないという点である。ピンチには自傷行為も含まれる。進撃の巨人のエレンもまた、自傷行為+ピンチによって変身するらしい。
ただし、そのピンチというのは曖昧だ。26話では手をかみちぎっても変身しなかったのにスプーンを拾った拍子に変身してしまう。しかしこのシーン、ウルトラマンを知る世代はニヤリとしたに違いない。最初のウルトラマン第34話「空の贈り物」には、変身しようとしたハヤタがフラッシュビームの代わりに誤ってスプーンを掲げるシーンがあるからだ。ハヤタは無論変身しないが、エレンはスプーンで変身した。やはり奇妙な話だ