2015年1月19日月曜日

「オーデション社会 韓国」を読む

佐藤大介  新潮新書

韓流スター人気はとどまらず、サムスンやLGの製品は世界中にあふれている。日本よりはるかに”勢い”があるかに見える韓国だが、現実はそう甘くない。幼い頃から競争を強いられ、経済格差は広がるばかりなのだ。就職活動のために整形手術までする男たち、家計の半分以上を占める教育費、世界一低い出生率、上がり続ける高齢者の自殺率
つらい社会を生きている韓国人の姿を現地からのリポートで。とあります。

第一章  オーデションに夢をのせて
第二章  人生の競争は「教育」から始る
第三章  就職も恋もスペック次第
第四章  「正社員」と「非正規」の深い溝
第五章  大企業は弱者を救わない
第六章  お住まいはどちら?
第七章  家庭崩壊と自殺大国

こういう章たてになっています。決して韓国固有の問題ではありませんが、生きにくいのは事実のようです。

儒教の国と考えられていまして、年寄りを敬う文化が連綿と続いていたのかもしれませんが、自殺率が一位、とくに年寄りの自殺が多いことを思えば、そういう伝統はとっくの昔に崩壊したものと思われます。

なぜにこんなことになったのか、それは1997年のアジア通貨危機で韓国は国が破産するところをIMFからの借り入れで、ということは国際通貨基金(IMF)の管理下にはいることを余儀なくされたことがあります。これは韓国では「国家的屈辱」として捉えられたのでした。そうした悪夢をくり返さない為に、韓国は競争力増加の路線を歩み出したのでした。その軸としてトップエリートの育成も位置づけられたのですね。一部のエリートたちが、国民生活をひきあげる原動力となったのですが、そのエリートを生み出すための競争を容認し、すさまじい競争社会になり若者の閉塞感も広がったのでしょう。

エリートたる一部の財閥会社は世界に冠たる地位を築いたのですが、大方の人たちはただただ競争に生き残るために凄まじい社会となったのですね。なんでも家計の5割は塾の費用だとか。小学生の時から14時間も勉強漬けだそう、そして凄まじい英語教育が行われている模様、どこでも通用するからと。

でもこれ韓国だけの問題でしょうか。TPP交渉が真っ最中、競争、市場開国が我が国の人々に本当に幸せもたらすのでしょうか、世界市場とか、公正な競争とか労働代を効率化するという名前での非正規への労働移転など、日本もその方向に行っているのは間違いではないのか。健全な中産階級があってこそ消費も進むというものです。アメリカや韓国も1割の金持ちと中産階級から脱落して貧乏化した大方の人ばかりが住むといういびつな国です。そこに日本もむかっているのではないの。

すると貧乏な世界に落ちたくないとばかり、必死に子供に塾に通わせ中産階級にとどまらせたいと考えるのではないのか。
もっともすすんだ社会主義と揶揄された呑気な平等感というか、一億総中流という牧歌的な社会から、はっきり言ってアメリカの要請を飲んでの競争社会への舵の切り方、韓国の人たちの生きにくさをそのまま日本に持って来ているという気がするんですが。

私たちの世代はいいよ、充分経済の恩恵うけてきたからね。そして老後にむかいそれぞれがそこそこの力と貯金を蓄えて来る余裕もあったからね。
アメリカ型の競争社会って1割の成功者と9割の貧乏人とで構成される社会なんだよ。
アメリカ型自由経済って行き詰まっていると思う。

お隣の国の事とはいえ、あまりに暗澹とした内容でした。毎日14時間も勉強させて、ノーベル賞なんて一人もいないんだからね。教育の仕方間違ってますって。スポーツも一部のエリートのものなんだって、いびつな国の息苦しさ伝わってきましたが、同時に日本国内のことだよと思わずにはいられませんでした。

2015年1月12日月曜日

何故エレンはスプーンを握って巨人化したのか?~奇妙なウルトラマンの物語

我々昭和40年代の子供たちは、ウルトラマンを熱狂的に受け入れた。イデ隊員がいみしくも名付けたように、子供たちは「ウルトラにいいでしょ」と思ったのだ。しかし、考えてみると、これはえらく軽率な話だ。いきなり現れた「巨人」が、たとえ当面の敵を倒してくれたからといっても、無条件に味方だと信じることは、むしろ非常識である。信用はできないが、しかし、強大な敵を倒してくるた以上、利用はしたい。「進撃の巨人」では、その葛藤が執拗なまでに描かれる。
大人の「ウルトラマン」に対する違和感は大江健三郎のエッセイ「破壊者ウルトラマン」に書かれている。彼が考察したのは第二期ウルトラシリーズのウルトラマンエースである。また、私と同い年の松本人志が監督した「大日本人」もまたウルトラマンへの違和感を描いたものといえる。映画後半は「ウルトラ6兄弟対怪獣軍団」のパロディになっている。また、学生時代に「顔だし」で帰ってきたウルトラマンを演じた庵野秀明がエヴァンゲリオンで追及してきたのも、ウルトラマンに対するある種の違和感だ。「光の巨人」降臨によるファーストインパクトから始まったストーリーには、帰ってきたウルトラマンに熱狂的に惹かれつつも違和感を感じている庵野のアンビバレントな感覚が如実に感じられる。私は「結」は、「人類全体がウルトラマンになる話」だと推測している。

これらの作品が帰ってきたウルトラマンに始まる第二期ウルトラシリーズに対する拘りから生まれたことは、帰ってきたウルトラマンそのものが、ウルトラマンへの、違和感や批判を含んだ反省から生まれていることと無縁ではあるまい。

ウルトラマン、ウルトラセブンと帰ってきたウルトラマンの大きな違いは、前者が「変身アイテム」により変身するのに対して、帰ってきたウルトラマンは、ピンチにならないと変身できないという点である。ピンチには自傷行為も含まれる。進撃の巨人のエレンもまた、自傷行為+ピンチによって変身するらしい。
ただし、そのピンチというのは曖昧だ。26話では手をかみちぎっても変身しなかったのにスプーンを拾った拍子に変身してしまう。しかしこのシーン、ウルトラマンを知る世代はニヤリとしたに違いない。最初のウルトラマン第34話「空の贈り物」には、変身しようとしたハヤタがフラッシュビームの代わりに誤ってスプーンを掲げるシーンがあるからだ。ハヤタは無論変身しないが、エレンはスプーンで変身した。やはり奇妙な話だ