2015年9月18日金曜日

個人的な記念日

今日は個人的な記念日。
出会い系サイトに書くような内容でもないんだけど。

9月17日、今日はオレの離籍した2年目の記念日。

数年前、大名にある某バルでたまたま隣に座った女性と、
仕事の話で盛り上がって、意気投合して、
その数ヶ月後あまり考えもせず同棲することになって。

お互い仕事の関係であまり接触がない日々を送り、
ひょんな事案から入籍することとなった。

区役所に入籍届だけを出し、巨人倍増
式も挙げなかったし、写真すら撮らなかった。

お互い経済的にも同年代より全然恵まれてたし、
仕事的にも独立していたし、
子供はいないし、
特段日々の暮らしには支障もなく、
入籍後の生活でもお互い仕事は忙しく
出張も多いので
寝室は別々で。

月に1~3回くらいしか顔を合わすこともなく、
お互いの接触点はネコたちぐらいだったろうか。

これまたひょんなことから入籍に至った事案がまさかの解決で、
お互い籍入れてても意味ないから離婚届出そうかと、
業務連絡的ないつものメールでやり取りして
都合が付くどちらかが区役所に書類を出しに行くとのことで
結果、たまたま都合が付いた彼女が一人で提出。

結婚の経緯も離婚の経緯も一般の人にはなかなか理解されないけど、
お互いが結婚生活というよりも「入籍生活」と言っていた。

あれから2年。
今晩はお互い独り。
オレは博多で、彼女は九州ではないとある地方の店にて。

久しぶりにLINEへメッセージが届く。

「あれからもう2年経ったんだね」
 「うん」
「元気?ネコたちは?」
 「オレはまぁまぁ元気。ヤツらはいうまでもなし… そっちは?」
「こっちもまぁまぁ」
 「じゃまた来年!死ぬなよ(」
「またね(笑)そっちこそね」

と変なやり取りしながら
一人、いつものバルで
予約してあった「シャラン鴨の胸肉」を食し、
「オロロソ」を飲んで家路に向かう。

家路の途中、ふと
縁も所縁もないこの博多でオレは
何してるのだろう…
どうしていくのだろう…
と思う。

そんな帰り道、
偶然にも
亡くなった愛してやまなかったコロンに似た三毛の野良猫が擦寄ってくる。
この子、いろんな人に可愛がられている懐き感だ。

何か目頭熱くなりながら
後ろ髪引かれつつ家路を急ぐ。

自宅では入籍生活を唯一知るお腹を空かせた住ネコ2匹が
普段は微妙な距離を保っているのに
今晩は珍しく近い。

今は残されたこいつらネコと、紅蜘蛛
今の取り巻く環境や世話になっている人たちのためにも
もう少し、博多で頑張ろうと思う。

そしてもう、決して戻ることはないのだけど、
それでも彼女に、
オレは今でも、感謝している。

2015年4月7日火曜日

占い

昼に食べた海鮮ちらし丼の上げ底ぶりに多少苛立ちを覚えつつ、社内を覗く。
ガラス越しに、後ろ姿がライオネル・リッチーのような男が、外の景色を見て、昼間なのに黄昏てる。
近くの女子社員に訊ねる。
「誰?」
「名古屋から異動になった営業の課長です。せめて課長ぐらいは覚えてあげて下さい。42才、既婚。私の新人研修の時の講師でした」
「営業がこの時間に黄昏?」
「世界で一番自分がカッコイイと思っているそうです!」
えっ?俺じゃないの?
「落ち込んだ時は、窓に映った自分の顔に癒されるそうです!」
えっ?俺の顔は無理!
「雨降っても傘ささないと言ってました。雨に濡れないそうです!」
えぇー!脂性?
「私、真似したら、濡れました!」
「でも、占いで何でも決めるらしいです」
占い?
「今回の転勤も占い師が名古屋にいると体壊すって言われたから、志願したらしいです」
ところで、あなた何者?って聞きたいくらい、色々と教えてくれた。
シアワセな人ってどこにでもいるし、占いに凝ってる人もいる。
私もシアワセな人を通りこえて、おめでたい人の称号を時々頂くが、結構、気持ちがはっきりしているので、占いはそこまで信じていない。

たとえば、結婚まえに、「この人とはすぐ離婚 することになりますね」なんて言われたとしても、その時に結婚したいと思ってたら、なんと言われてもするだろうから、前もって言われてもしょうがない。
それに、物事って単独で存在するわけじゃなくて、それぞれが互いに関係し合ってる流れの中のものだから、たとえば病気だったら、その病気が顕在化するまえの潜在状態の時のことを忘れては困る。
なにかそうなった理由があるのかもしれない。その理由をみなくては。病気は敵ではなくてそれもまた自分なんだし。
私が嫌いなタイプの占い師は、病気や事故や別離や家族の不幸なんかをただ悪いこと、自分と敵対するもの!みたいにとらえてる人。
それらはみんな自分の人生の構成要素のひとつで、ある意味、普通のことだと思う。
またそれらによって何かに気づかされることもるだろうし。
学びのない経験は存在しない。
いいことは自信に。
悪いことは教訓に。

とりあえず、その占い師も大阪に来てもらわないと。
スピーディーに事は進めたいからね。

2015年1月19日月曜日

「オーデション社会 韓国」を読む

佐藤大介  新潮新書

韓流スター人気はとどまらず、サムスンやLGの製品は世界中にあふれている。日本よりはるかに”勢い”があるかに見える韓国だが、現実はそう甘くない。幼い頃から競争を強いられ、経済格差は広がるばかりなのだ。就職活動のために整形手術までする男たち、家計の半分以上を占める教育費、世界一低い出生率、上がり続ける高齢者の自殺率
つらい社会を生きている韓国人の姿を現地からのリポートで。とあります。

第一章  オーデションに夢をのせて
第二章  人生の競争は「教育」から始る
第三章  就職も恋もスペック次第
第四章  「正社員」と「非正規」の深い溝
第五章  大企業は弱者を救わない
第六章  お住まいはどちら?
第七章  家庭崩壊と自殺大国

こういう章たてになっています。決して韓国固有の問題ではありませんが、生きにくいのは事実のようです。

儒教の国と考えられていまして、年寄りを敬う文化が連綿と続いていたのかもしれませんが、自殺率が一位、とくに年寄りの自殺が多いことを思えば、そういう伝統はとっくの昔に崩壊したものと思われます。

なぜにこんなことになったのか、それは1997年のアジア通貨危機で韓国は国が破産するところをIMFからの借り入れで、ということは国際通貨基金(IMF)の管理下にはいることを余儀なくされたことがあります。これは韓国では「国家的屈辱」として捉えられたのでした。そうした悪夢をくり返さない為に、韓国は競争力増加の路線を歩み出したのでした。その軸としてトップエリートの育成も位置づけられたのですね。一部のエリートたちが、国民生活をひきあげる原動力となったのですが、そのエリートを生み出すための競争を容認し、すさまじい競争社会になり若者の閉塞感も広がったのでしょう。

エリートたる一部の財閥会社は世界に冠たる地位を築いたのですが、大方の人たちはただただ競争に生き残るために凄まじい社会となったのですね。なんでも家計の5割は塾の費用だとか。小学生の時から14時間も勉強漬けだそう、そして凄まじい英語教育が行われている模様、どこでも通用するからと。

でもこれ韓国だけの問題でしょうか。TPP交渉が真っ最中、競争、市場開国が我が国の人々に本当に幸せもたらすのでしょうか、世界市場とか、公正な競争とか労働代を効率化するという名前での非正規への労働移転など、日本もその方向に行っているのは間違いではないのか。健全な中産階級があってこそ消費も進むというものです。アメリカや韓国も1割の金持ちと中産階級から脱落して貧乏化した大方の人ばかりが住むといういびつな国です。そこに日本もむかっているのではないの。

すると貧乏な世界に落ちたくないとばかり、必死に子供に塾に通わせ中産階級にとどまらせたいと考えるのではないのか。
もっともすすんだ社会主義と揶揄された呑気な平等感というか、一億総中流という牧歌的な社会から、はっきり言ってアメリカの要請を飲んでの競争社会への舵の切り方、韓国の人たちの生きにくさをそのまま日本に持って来ているという気がするんですが。

私たちの世代はいいよ、充分経済の恩恵うけてきたからね。そして老後にむかいそれぞれがそこそこの力と貯金を蓄えて来る余裕もあったからね。
アメリカ型の競争社会って1割の成功者と9割の貧乏人とで構成される社会なんだよ。
アメリカ型自由経済って行き詰まっていると思う。

お隣の国の事とはいえ、あまりに暗澹とした内容でした。毎日14時間も勉強させて、ノーベル賞なんて一人もいないんだからね。教育の仕方間違ってますって。スポーツも一部のエリートのものなんだって、いびつな国の息苦しさ伝わってきましたが、同時に日本国内のことだよと思わずにはいられませんでした。

2015年1月12日月曜日

何故エレンはスプーンを握って巨人化したのか?~奇妙なウルトラマンの物語

我々昭和40年代の子供たちは、ウルトラマンを熱狂的に受け入れた。イデ隊員がいみしくも名付けたように、子供たちは「ウルトラにいいでしょ」と思ったのだ。しかし、考えてみると、これはえらく軽率な話だ。いきなり現れた「巨人」が、たとえ当面の敵を倒してくれたからといっても、無条件に味方だと信じることは、むしろ非常識である。信用はできないが、しかし、強大な敵を倒してくるた以上、利用はしたい。「進撃の巨人」では、その葛藤が執拗なまでに描かれる。
大人の「ウルトラマン」に対する違和感は大江健三郎のエッセイ「破壊者ウルトラマン」に書かれている。彼が考察したのは第二期ウルトラシリーズのウルトラマンエースである。また、私と同い年の松本人志が監督した「大日本人」もまたウルトラマンへの違和感を描いたものといえる。映画後半は「ウルトラ6兄弟対怪獣軍団」のパロディになっている。また、学生時代に「顔だし」で帰ってきたウルトラマンを演じた庵野秀明がエヴァンゲリオンで追及してきたのも、ウルトラマンに対するある種の違和感だ。「光の巨人」降臨によるファーストインパクトから始まったストーリーには、帰ってきたウルトラマンに熱狂的に惹かれつつも違和感を感じている庵野のアンビバレントな感覚が如実に感じられる。私は「結」は、「人類全体がウルトラマンになる話」だと推測している。

これらの作品が帰ってきたウルトラマンに始まる第二期ウルトラシリーズに対する拘りから生まれたことは、帰ってきたウルトラマンそのものが、ウルトラマンへの、違和感や批判を含んだ反省から生まれていることと無縁ではあるまい。

ウルトラマン、ウルトラセブンと帰ってきたウルトラマンの大きな違いは、前者が「変身アイテム」により変身するのに対して、帰ってきたウルトラマンは、ピンチにならないと変身できないという点である。ピンチには自傷行為も含まれる。進撃の巨人のエレンもまた、自傷行為+ピンチによって変身するらしい。
ただし、そのピンチというのは曖昧だ。26話では手をかみちぎっても変身しなかったのにスプーンを拾った拍子に変身してしまう。しかしこのシーン、ウルトラマンを知る世代はニヤリとしたに違いない。最初のウルトラマン第34話「空の贈り物」には、変身しようとしたハヤタがフラッシュビームの代わりに誤ってスプーンを掲げるシーンがあるからだ。ハヤタは無論変身しないが、エレンはスプーンで変身した。やはり奇妙な話だ

2014年12月18日木曜日

集中レッスン フルート・サックス

翌日、土曜日は集中レッスンをお二人に。
午前中は定期的にいらしているフルート。猫背万歳、とはいっているけれど、それを目的にしてしまってはだめだなあ、ということを逆に学ばせていただきました。
つまり、二足歩行的身体からまげて、そのままでは、やはりそれはつらい。
「つらいのに、我慢して」はやめましょう。とレッスン。四足歩行から起き上がってでの猫背に。
視点の集中もNG.
「辛くても我慢してたくさん練習すればよいことが」
となんとなく思い込まされてきた私たち。でも、辛いというのは心身の声に他ならないのだから、それを頭で否定するのではなく、素直にその声に従って、辛くないやり方を探した方が断然、良いと思う。
私が提案しているのは、こんなにシンプルなことなのに、まだまだ世の中からすると少数派なのは何故だろう?と「思い込み」の刷り込みの深さに改めて思い至る。
でも、彼も当初いらしたころとは別人のような音が出せるようになりました。
来年の発表会も楽しみです。
そうそう。私のななめ犬猫プンクトにはそれ以前ベースとしての屏風座りがあったのだなあ、ということもこのレッスンで再認識。すっかりこれが自分にとってのふつうになっていたので意識されず、従って、お伝えもしそびれていたのですが、まず、「屏風座り」です。皆様!!
午後は、なんと北海道からの生徒さん。
とても丁寧かつ情熱あふれるメールで、年配の方?と思いきや、まさかの30代でした。
「それなら一度どうぞ」ということになりました。
所謂、一般に言われるところの「よい姿勢」での演奏姿。体格も大きいので、それでもなんとななってしまう。でも時間とともに疲労は増すし、緊張もする、とのこと。
「それはそうですよ。緊張のスイッチを自分で入れている姿勢ですから。緊張というのはメンタルの問題ではなく、それ以前の体の使い方、状態に原因を負うところが多いんじゃないか、と思いますよ。」といろいろあれこれ、試していただきました。
サックスも「カヤックの構え」がとても有効でした。
もちろん、それでなく、この10年のものを大急ぎで。
「いや、こんなに変わるとはびっくりです!来てよかったです!!」
「もし関心のある方がいたら、どんどん、周囲に広めちゃってください。すぐにできることばかりですからね。」
と。肉球までは時間切れでいきませんでしたが、まずは、この「ふんばらない」でいろいろと試みていただければと思います。